小富豪のための香港金融案内


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コラム:カレンシーボード制とアジア通貨危機

    香港ドルは米ドルにペッグし、人民元と一体化しています。これは海外の投資家にとっても、中国政府にとっても都合のいいことでした。香港はイギリス植民地時代以来、中央銀行の存在しないカレンシーボード制によって通貨管理を行なってきました。

アジア通貨危機の構図

  カレンシーボード制は固定相場制の一種で、為替レートの安定を手に入れる代償として金融政策を放棄することになります。金利水準が米ドルに追随するため、インフレが起きても金利を引き上げることもできなければ、経済が悪化しても金利を引下げて景気を刺激することもできません。

 本書は国際金融の解説書ではないので詳しくは触れませんが、各国通貨の交換レートは、主にインフレ率と金利差によって決定すると考えられます。ということは、安定したドルペッグを続けるためには、インフレ率と金利がアメリカと同じになっていなければなりません。
 一般にドルペッグ制を採用するのは経済成長率の高い新興工業国で、これらの国は自国通貨を機軸通貨に固定することで海外からの投資を呼び込み、さらに経済成長を加速させようと考えているわけですから、必然的にインフレが進行します。インフレは通貨の価値を引き下げますからドル高(自国通貨安)を引き起こしますが、ドルペッグによって交換レートが固定されているため、為替の変動による調節機能が働く余地はありません。このようにしてドルペッグは、必然的に行き詰まることになります。これが1997年のアジア通貨危機や2001年のアルゼンチン経済危機の基本的な構図です。

 通貨危機以前は、香港以外にもタイ、マレーシア、インドネシアなどの国々がドルペッグ制を採用していました。これらの国には高い経済成長にひかれて海外から膨大な投資資金が流入し、国内にマネーが溢れて資産インフレを誘発し、株長者や不動産長者が誕生しました。

 一方、為替レートが固定されてインフレだけが亢進するということは、輸出競争力が徐々に失われていくということでもあります。新興工業国の場合、輸出の拡大によって経済成長を続けるしかありませんから、輸出競争力がなくなれば経済は失速するほかありません。通貨は、自らの価値を引き下げてくれる機会を待っていたわけです。

 こうした状況にいち早く気づいたヘッジファンドなど国際投機家たちは、割高になっている通貨をあらかじめ売っておけば、その機に乗じて大きな利益を上げることができると考えました。このようにしてアジア通貨危機が勃発したのです。

 タイ、マレーシア、インドネシアなど、ドルペッグ制を採用していた各国が国際投機筋の攻撃に耐え切れず、次々と変動相場制に移行し、国内経済に大打撃を負ったにもかかわらず、アジアでたった2つの通貨だけが、この攻撃を耐え抜きました。それが、中国人民元と香港ドルです(実際には、人民元は為替市場に流通していませんから、攻撃は香港ドルに集中しました)。

 ではなぜ、香港ドルはこの攻撃をはね返すことができたのでしょうか? そこに、カレンシーボード制と一般の固定相場制の決定的な違いがあります。

カレンシーボードの秘密

  通貨危機に襲われた東南アジア諸国や国家経済が破綻したアルゼンチンのように、自国通貨を米ドルに固定しつつも中央銀行による金融政策を手放そうとしないと、国債の増発や財政赤字で外貨準備高が枯渇しても貨幣の発行量は調整されず、通貨の信用崩壊というカタストロフを避けることができなくなります。しかしカレンシーボード制には、こうした事態を防ぐ機能があらかじめ内蔵されているのです。

 ヘッジファンドなどが大規模な香港ドル売りを仕掛け、多くの人が、香港ドルはいずれ切り下げられるのではないかと思ったとします。人々は、自分が持っている香港ドルをとりあえず米ドルに交換しておこうと考えます。こうして発券銀行には大量の香港ドルが持ち込まれますが、これらは銀行が保有するドル資産によって完全に担保されていますから交換に問題は生じません。

 ところで、みんなが香港ドルを米ドルに換えてしまうと市場に流通する香港ドルが足りなくなってしまいます。すると、需要と供給の法則にしたがって香港ドルの希少性が高まり金利が上がります。香港には金利を管理する中央銀行がありませんから、理屈のうえでは、この金利は無限大まで上昇します(香港ドル紙幣が最後の1枚まで米ドルに交換され、この世から香港ドルが消えた場合)。そうなると、通貨切下げの可能性が多少あったとしても、金利の高い香港ドルで運用したほうが得だと考える人が出てきます。こうした「金利裁定」が働く結果、金利の低い米ドルは高金利の香港ドルに交換されて、やがてバランスするようになるわけです。

 実際、97年の通貨危機の際には、香港ドルの翌日物金利が300%まで上昇しました。当時、経済紙を含む日本のほとんどのマスコミは、この現象を「ヘッジファンドによる香港ドルの借入れを防ぐために香港金融当局が常軌を逸した金利の引上げを行なった」と報じていましたが、これは実は、カレンシーボード制が正常に機能した結果だったのです。

 カレンシーボード制の香港では、香港ドルを売っても金利が上昇するだけで、交換レートは下がりません。ヘッジファンドなどは多額の香港ドルを保有しているわけではなく、市中銀行から短期で香港ドルを借り、それを米ドルに交換することで通貨を「攻撃」するわけですから、いずれは借入れ金利の圧力に耐え切れなくなってしまいます。このようにして香港は、ヘッジファンドによる「通貨攻撃」を見事撃退したのです。

 ただしこの方法には強烈な副作用があります。

 カレンシーボード制を採用している香港の場合、香港ドルを大量に売れば、ほぼ自動的に市中金利は上がります。金利が上昇すると、それに反応して株式・債券・不動産などの投資商品は値下がりします。実際、国際投機筋が香港ドルを大量に売った結果、香港の株式市場は大暴落し、代表的な株価インデックスであるハンセン指数もピーク時の半分近くまで下がってしまいました。カレンシーボード制とは、株式や不動産などの資産市場を犠牲にすることで、通貨の交換価値を守るような仕組みなのです。

香港ドルの未来

 世の中に完璧な制度がないように、カレンシーボード制にもいくつかの困難に直面しています。

 ひとつは、これまで述べてきたように、金融政策を事実上放棄していることです。中央銀行の使命はインフレ率を抑制し、安定した経済成長を導くことですが、カレンシーボードの場合、その目的は為替レートの安定になります。したがって、為替レートさえ安定すればインフレ率や金利はどうでもいい、ということになりかねません。

 香港を訪れた人はわかると思いますが、1米ドル=120円(1香港ドル=15円)前後の水準では、香港で売られているブランドものは日本に比べてぜんぜん安くありません。これは80年代以降、香港の物価が一貫して上昇を続けたため、香港ドルがかなり割高になってしまったためだと思われます。90年代は年間5%を超えるインフレがふつうでしたが、こうした状況でも、香港の金融当局は、金利を引き上げてインフレを抑制するという政策をとることができませんでした。

 香港は日本以上の「土地資本主義」ですが、頼みの不動産市場は低迷しています。その最大の理由は人や資本が高度成長に沸く中国本土に流出しているためですが、そんな状況でも金利を引き下げたり、貨幣流通量を増やしたり、為替レートを調整したりする自由はありません。SARSの影響で香港の観光業は壊滅的な打撃を受けましたが、その際も香港特区政府はなんら有効な手段をとれませんでした。

 カレンシーボード制には、金融機関が破綻した場合の安全ネットが存在しないという問題もあります。香港には中央銀行は存在しませんから、「最後の貸し手」として、破綻に危機の瀕した金融機関にマネーを供給することができないからです。

 1993年4月、香港金融管理局(Hong Kong Monetary Authority 略称:HKMA)が設立され、最近では中央銀行に近い役割を果たすようにまでなってきています。金利はあいかわらず米国金利に連動していますが、香港銀行協会理事会により事実上の公定歩合(銀行間貸出金利)が決定され、準備預金をつかったマネーサプライの調節や債券市場の育成も始まりました。金融機関の破綻にそなえて、当局主導の救済スキームも整備されつつあります。

 独自の金融制度を維持し続ける香港の実験はまだ続いているのです。


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