Money Laundering
by TACHIBANA Akira
TOUR in HONG KONG
香港上海銀行(4)
準備が終わると、ベティに合図して二人を彼女のブースまで連れて行く。口座開設に必要な個人情報を英文で記入したレターヘッドをベティに渡し、「よろしく」とだけ伝えて、秋生は応接スペースに戻り、ウォールストリート・ジャーナルのアジア版を広げた。ほんとうは二人に同席してもいいのだが、いっしょにいるといろいろと細かなことを訊ねられて面倒なのだ。秋生がいなければ、ベティはかたちだけの質問をしつつ、レターヘッドに書かれた情報をただコンピュータに打ち込むしかない。土建屋夫婦といえば、何を聞かれているかもわからず、ただニヤニヤ笑いながら頷くだけだ。必要なことはあらかじめ秋生がすべて確認しているのだから、これで何の問題もない。作業は平和的かつ効率的に進んでいく。
口座開設書類が完成すると、ベティが手を挙げて秋生を呼ぶ。ここで秋生は、書類の紹介者欄に自分のサインをしなければならない。香港上海銀行のプレミアやパワー・バンテージは、同じ口座を持つ紹介者がいないと新規の口座開設ができない。これが、香港に知合いのいない日本人の口座開設希望者が、秋生のような人間にサポートを依頼しなくてはならないいちばんの理由だ。秋生が最後に署名するのは、自分の口座番号と本名を客に知られたくないからだった。「工藤秋生」というのはよく言えばペンネーム、要するに偽名だ。
香港上海銀行のシステムは日本の金融機関よりもずっと進んでおり、手続きが終わると、その場でキャッシュカードとPIN、小切手帳が発行される。PINはパーソナル・アイデンティフィケイション・ナンバーの略で、キャッシュカードを使う時の暗証番号だ。口座維持手数料などの形式的な説明を聞いて、手続きは無事終了する。
「あのう、日本から持ってきた金はどうすればええんでしょう?」
ベティの味気ない営業用スマイルに送られてブースから追い出された途端、不安そうに土建屋が尋ねてきた。せっかく日本から大金を運んできたのに、ここで見捨てられたのでは困るのだ。
「口座ができたので、次は下に行って、日本円を入金する方法と、香港ドルや米ドルに両替する方法をお教えします。その後で、ATMでの出金・入金と小切手の使い方を覚えてください」
秋生がそう答えると、安心したのか、土建屋は持っていたタオルでゴシゴシと顔を拭った。女房のほうは、そんな夫を無視して、生まれてはじめて手にする外国銀行のキャッシュカードと小切手帳を見てガキのようにはしゃいでいる。
秋生は二人を、レベル3のリテール・カウンターに案内した。正面のATMコーナーに向かって左手が香港ドルの普通・当座預金窓口、右手が定期預金や外貨預金などの窓口になっている。
「日本から持ってきた現金は、香港ドルのほか、米ドル、ユーロ、ポンドなど主要12通貨で口座に入金することができます。基本は同じなので、ここでは、香港ドル、円、米ドルの3種類の入金方法を覚えてください。口座の最低預金額は2万香港ドルなので、ちょっと余裕をもって、とりあえず40万円を香港ドルで入金してみましょう」
そう言って二人をインフォメーション・カウンター横のブースに連れて行くと、秋生は無地のレターヘッドを取り出して、
「Please deposit this into my savings account.」
と大書した。
「デポジットは〈預金してくれ〉、セイビングス・アカウントは〈普通預金口座〉です。これで、〈この現金を香港ドルに両替して普通預金口座に入金してくれ〉という意味になります。ちょっと発音してみてもらえますか?」
「ぷりーず、でぽじっと、でぃす、いんとぅー、まい……」
二人はおまじないのように、秋生の書いた英文を繰返し唱えた。
「じゃあ、あそこのカウンターに行って、40万円の現金とキャッシュカードを窓口に渡して入金してきてください」
「えっ」という表情で、土建屋が秋生を見た。「いっしょについてきてくれないのか?」と必死に目で訴えている。こういう時は女のほうが覚悟を決めるのが早いのか、「しっかりしなさいよ」とばかりに夫の袖をつかんでカウンターに引っ張っていく。
ほんの30秒ほどで、入金手続きは終わった。カウンターに日本円の現金とキャッシュカードを置けば、用件を聞くまでもなく、日本人顧客の入金依頼に決まっている。土建屋がニコニコしながら、秋生のところに戻ってきた。生まれてはじめて外国人相手に話した英語がうまく通じたと思ったのだろう。これで40万円が約2万7000香港ドルに両替されて口座に入金された。
3種類の香港ドル紙幣。
左から中国銀行、スタンダード・チャータード銀行、香港上海銀行
「次は、向こう側の外貨預金窓口に行って、日本円と米ドルで預金してみます。残金は60万円ですから、それぞれ30万円ずつでいいですか?」
二人はわけもわからずに頷く。
「基本は今と同じです。現金とキャッシュカードを出して、最後を〈ジャパニーズ・エン・アカウント〉に変えれば、そのまま円口座に入金されます。〈USダラー・アカウント〉なら米ドル預金になります。じゃあ、まずは奥さんがドル口座に入金してきてください」
女は素直に「はい」と返事すると、夫から30万円を受け取り、さっさとカウンターに歩いていく。その後を男が、慌てて追いかける。円入金とドル入金をいっしょにやらせると窓口で確認を求められ、答えられずにおろおろすることになるので、両替は必ず一通貨ずつでなくてはいけない。ドル円レートは1ドル=120円だったので、約2500ドルが米ドル口座に入金された。
次に窓口を変えて、同じ要領で、土建屋が最後の30万円を円口座に入金した。戻ってきた男が、不思議そうな顔をしている。
「明細もろうたんですが、750円引かれてるみたいなんですが、何でっしゃろ」
「香港ドル以外の外貨を両替せずに窓口で入金する時は、0.25パーセントの受取手数料が発生します。円を香港ドルや米ドルに替える時は為替手数料がかかりますから、その代わりということです」
説明を聞いても、二人は「そんなもんか」と不審気な表情をしている。どんな商売にせよ、他人に何かを頼んだら、それに応じて金を取られるのは当たり前だ。日本から運んできた円をそのまま円口座に入金されても、銀行には何のメリットもない。金を預かるのもサービスであり、面倒なことを依頼すれば手数料をとられて当然なのだ。
ともかく、右も左もわからない土建屋夫婦が日本から持ってきた100万円の現金は、こうして円口座30万円、米ドル口座2500ドル、香港ドル口座2万7000ドルに収まった。