The Traveling Millionaire


[INDEX]|[次へ]

第4章 革命としてのヘッジファンド

 クリスティアン・バッジョはイタリア系アメリカ人で、海兵隊を除隊した後、一攫千金の夢を求めて香港に渡った。はじめて彼と会ったのは1998年夏で、クリスは友人とオンライントレードのシステム開発会社を立ち上げたばかりだった。

 クルーカットの彫りの深い顔立ち、仕立てのいいスーツに包まれた贅肉ひとつない肉体、ピンストライプのブルーのシャツと磨き上げられた黒の革靴――絵に描いたようなエグゼクティブ・ビジネスマンのクリスは、トレーダーたちの集まるマンダリンホテルのバーや、100万ドルの夜景を一望できるヴィクトリアピークの屋外レストランに私を案内してくれた。

  彼の夢は、世界中のマーケットに自由にアクセスできるトレーディングシステムを提供し、金融業界のデファクト・スタンダードを握ることだった。インターネットバブルの前夜で、トスカーナワインのグラスを傾けながら語られる彼の野望も天空を突き抜けんばかりだった。

  クリスのビジネスモデルは、それなりに魅力的ではあった。

  インターネットが世界を変えていくなかで、急速に進歩するIT技術に中小の証券会社はついていくことができなかった。当時のオンラインシステムは、画面だけはそれふうにつくられていても、Eメールで送られた注文を電話で取り次ぐという見かけ倒しがほとんどだった。そこでクリスは、自社開発のトレーディングシステムを世界各国の証券会社に売り込み、中小証券のネットワークを通じて世界中の株式市場にアクセスできる“ヴァーチャル証券”をつくろうとしていたのだ。

  香港の証券会社がすでに彼らのシステムを導入しており、クリスはそれを営業ツールに、日本市場へのセールスを目論んでいた。ノストラダムスが人類滅亡を予言した1999年は世界中がネットとITに狂乱した時代で、クリスの会社も香港のベンチャーキャピタルからかなりの資金を集めたらしい。大手金融機関の香港法人とのあいだで契約の話も進んでおり、彼らのビジネスは黄金のピラミッドに片足をかけるところまでたどり着いていた。

  そして、ネットバブルがはじけた。

  風の便りで、クリスが会社をたたみ、オフショアバンクにヘッドハントされてイギリス沖合いの小さな島に移っていったという話を聞いた。それから1年ほどして、突然、連絡があった。「香港に戻って新しいビジネスを始めたから、ぜひ会いたい」という。

  金融街・中環にあるイタリアンレストランで再会したとき、クリスはふたたび黄金のピラミッドを目指していた。彼の話では、香港に住むアメリカ人“天才”ファンドマネージャーと運命的な出会いを果たし、新たに運用を開始するヘッジファンドの販売総代理店になったのだという。ついては日本での販売を手伝ってほしい、という話だった。複数のヘッジファンドに投資するFOF(ファンド・オブ・ファンズ)で、その仕組みがいかに優れているかをさまざまな資料で説明されたが、なにがどう素晴らしいのかはよくわからなかった。いちばん不思議だったのは、これから運用を始めるファンドにもかかわらず、過去5年間のトラックレコードを持っていたことだ。

  オファーを断ったことでクリスとの交友は途絶えたが、しばらくしてあちこちでそのファンドの名前を目にするようになった。クリスの会社と契約した日本の代理店が、個人投資家に積極的に売り込みはじめたのだ。インターネットでは、そのファンドの想像上のパフォーマンスが大々的に宣伝されていた。2万ドル程度の少額から投資できることもあり、海外投資などしたことのない個人投資家にもよく売れているようだった。

  それからさらに2年が過ぎ、ある日、香港のファンド運用会社のCEOが逮捕されたとの記事がウォールストリートジャーナル・アジア版に掲載された。そのCEOはオフショアにダミーのファンド会社をつくり、顧客から預かった資金を横流ししていたのだ。クリスのファンドは、前代未聞のスキャンダルに巻き込まれていた。

  その後の調査によれば、ファンドの規模は約2億ドルで、流用額はその4分の1にあたる5000万ドルにのぼった。CEOは顧客の資金でハワイに300万ドルの豪邸を購入するなど、贅沢のかぎりを尽くしていたという(2006年9月に懲役10年の判決が下された)。目論見書によれば、そのファンドは大手監査法人の監査を受け、資産は信託会社で保護されていると説明されていたが、顧客の資産を守るのになんの役にも立たなかった。

  ヴィクトリアピークの屋外レストランで、きらめく夜景を前にクリスは言った。

 「ほら、世界はこんなに美しいんだ。僕たちの前には無限の可能性が広がっているんだよ」

 事件以来、彼の消息は聞かない。


[Home]|[INDEX]